「怪物」のラストは生きてる・死んだどっち?校長の折り紙の意味は?

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※ネタバレを含みますのでご注意ください。

映画「怪物」は2023年第76回カンヌ国際映画祭で脚本賞とクィア・パルム賞を受賞した是枝裕和監督の話題作ですが、ラストで主人公の湊と依里はどうなったのでしょうか?

生きてる・死んだ、どちらなのでしょうか?

また、伏見校長が折り紙で船を作っていましたがその意味は何なのでしょうか?

誰もが少なからず持つ先入観や小さなすれ違い、タイミングのズレ、言葉の捉えかたの違い、ささやかな嘘が誤解を生み問題となり、事件へと繋がることを描いた秀作です。

こんな良作をなんでもっと早く観なかったんだろうと思いました。

どこにでもある小学校で誰もが怪物になりうる可能性を鋭く描いた意欲作ですが、説明し過ぎず伏線が多くラストの描き方もいろいろな受け取り方ができ、さまざまな解釈が可能です。

ですが観て最も気になるラストシーンで湊と依里が生きてる・死んだどちらなのか、考察し記事にしてみました。

併せて女優田中裕子の怪演が光る伏見校長の折り紙の意味についても考察してみました。

「怪物」のラストは生きてる・死んだどっち?

是枝監督の映画の特徴でもありますが、物語が曖昧で観客に解釈を委ねる形で終わっているため、ラストで主人公が死んだのか生きているのかは明確には描かれていません。

監督の是枝裕和氏と脚本の坂元裕二氏が2023年6月10日に早稲田大学での特別講義でこの点について言及しています。

是枝監督「彼らはこのまま生き続けるとしか思えない一択」

坂元裕二氏「彼らの生を肯定して終わるという共通認識があった」

とありますが一方でこんな発言もしています。

坂元裕二氏「ただ、光に満ちているから現実離れしているという意見を否定するつもりもない」

ここではいろいろな可能性を否定せず、考察してみることにしました。

生きてるという捉え方

彼らが生きているという捉え方は、困難な経験を経た二人の希望や再生の象徴として捉えることができると思います。

二人が光にあふれた草原を走るラストシーンは、物語の中で直面した苦難や痛みを乗り越え、彼らが新たなスタートを切ることを示唆しているとも解釈できます。

ラストシーンで二人が生きていると考える理由は幾つかあります。

希望の象徴

彼らの生存は、大人たちや同級生から受けた絶望的な状況からの希望の復活を示唆しています。

映画全体を通じて描かれる困難を乗り越える力は、彼らの生存という形で表現されているように感じます。

成長と変化

物語を通じて、湊と依里はお互いの関係性をことあるごとに再認識し、悩み、考え、大きな成長を遂げます。

彼らの関係が強化され、新たな道を歩むことで、生き続けることが可能であるというメッセージが込められていると考えられます。

未来への希望

ラストシーンがあえて曖昧に描かれていることで、観客に自由に未来を想像させる意図があるかもしれません。

彼らが生きていることで、観客にも希望を感じさせることができるような終わり方になっています。

死んだという捉え方

多くの映画評論家や観客は、湊と依里が象徴的な意味で「死んだ」もしくは「新たに生まれ変わった」と考えるようでもあります。

ですが実際に肉体的にどうなったかについては、映画自体がその答えを明示していないため、観る人によって異なる解釈が可能です。

このようなエンディングは是枝監督の作品ではしばしば見られる特徴であり、観客に深く考えさせるように設計されています。

したがって、どちらの解釈も正しいと言え、観る側の価値観や感じ方に委ねられた結末です。

ここでは死んだ、と考えられる理由について考察してみます。

象徴的な結末

映画全体で描かれる湊と依里の苦悩や絶望は、死という結末によって強調されます。

生き残ることができないという厳しい現実を反映し、死によって彼らの苦しみが解消されるという意味を持つことを示しています。

トラウマの影響

湊と依里二人が抱える多感な子供ならではの感情や、家庭の事情や家族間でのトラウマ、心の傷は、最終的に彼らを追い詰める要因となります。

彼らが互いに支え合ったとしても、その影響から逃れられず、死に至るという解釈が成り立ちます。

社会的な孤独

映画は、現代の社会における子供や大人の孤独や疎外感を強調しています。

子供である湊と依里二人の死は、そうした社会の中で独特の感情を持つ子供たちの無力感や孤立を象徴し、彼らの存在がどれほど脆弱であったかを示しています。

暗い未来の示唆

ラストの曖昧さは、湊と依里二人の未来が必ずしも明るいものでないことを示唆しているとも解釈できます。

生きていても、彼らが直面する現実が変わらない可能性を示すために、死という結末が選ばれたのかもしれません。

「怪物」校長の折り紙の意味は?

田中裕子演じる伏見校長は、夫が服役している刑務所の面会所で折り紙の船を折ります。

この映画で校長が折り紙で船を作るシーンは、物語全体を象徴する深い意味を持っています。

この折り紙の船は、単に手先の器用さを示す以上に、映画のテーマやキャラクターの心理、さらにはストーリー全体の象徴として、多面的に解釈できる重要なアイテムです。

この折り紙の船は、作品のテーマやキャラクターの内面的な状態、さらには物語の象徴として解釈され、さまざまな意味が込められていると考えます。

無垢や希望の象徴

折り紙の船は、自分の教え子たちの子供たちの無垢さや純粋な希望を象徴していると考えられます。

折り紙は日本の伝統的な手芸であり、子供時代や純粋さを連想させます。

このシーンでは、物語の中で複雑な問題や葛藤が展開する中で、折り紙の船が希望や解決を暗示しているかのようです。

特に、船というモチーフは「航海」や「旅立ち」の象徴としても使われ、キャラクターが新しい未来へと向かうことを示唆しているかもしれません。

不安定な状況や脆さの象徴

折り紙の船は、紙でできているため非常に脆く、風や水にさらされると簡単に壊れてしまいます。

これは、物語の中で登場人物たちが直面する不安定な状況や、壊れやすい人間関係、真実が複雑に絡み合う状況を象徴しているとも解釈できます。

校長の行動自体が、この脆さや不確かさを強調している可能性があります。

誤った導きや自己欺瞞

校長は表面的には正しいことをしようとする人物ですが、実際には物事を見誤っている面もあります。

折り紙で船を作る行為は、校長が子供たちを導こうとするものの、最終的にはその方向性が誤っていることや、彼女の考え方が現実とはズレていることを示唆しているのかもしれません。

紙の船は決して海を渡れないように、彼女の「解決策」も根本的には無力であることを暗喩しているかのようでもあります。

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「怪物」のラストは生きてる・死んだどっち?校長の折り紙の意味は?まとめ

是枝裕和監督、坂元裕二脚本の映画「怪物」の主人公の湊と依里がラストシーンで生きてるのか死んだのかどちらなのか、考察しました。

併せて、物語の全体を暗喩するかのような伏見校長の折り紙の船の意味についても併せて記事にまとめてみました。

「怪物」では日常生活の中で誰もが怪物になりうる社会であることを描き、感受性の高い子供二人の感情の微妙な変化を鋭く捉えてLGBTQ+に繋がるテーマを提供しています。

湊と依里は生きてるという捉え方もあれば死んだという捉え方もある、いろいろな解釈が可能な終わり方をしています。

伏見校長が怪物だとするコメントも見受けられましたが、誰もが誰かの怪物になり得ることを描いていると思います。

校長の折り紙の船は自分たちを乗せて進む社会の受容体(例えば小学校)が脆く壊れやすいものであることを暗示しているかのようです。

映画のラストで湊と依里の二人が生きてる・死んだ、どちらにしても意味深い示唆を示していると思いました。

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