※ネタバレを含みますのでご注意ください。
2024年4月5日の金曜ロードショーで地上波初となった、新海誠監督の2022年公開最新アニメーション映画「すずめの戸締まり」が放送されましたが、その中で準主役ともいえる猫のキャラクターとして登場する「ダイジン」がかわいそうだとの声が上がっています。
人間から要石という重い役割を背負わされていにしえから重責を担ってきたたいへん重要な存在ですが、いろいろな意味でダイジンがかわいそうだというものです。
ここではそもそも映画「すずめの戸締まり」に出てくるダイジンとは何者なのかも含めて、かわいそうなダイジンとその最後について考察してみたいと思います。
一度は解放されたダイジンが最後になぜ要石に再び戻ったのか、考察したい思います。
すずめの戸締まりでダイジンがかわいそう!
宮崎県にある(架空の)廃墟”門波リゾート”に残された後ろ戸(現世と常世=とこよ※後述:を結ぶ結界を開閉することのできる特別な扉)を地元に住む高校生であるすずめ(主人公=岩戸鈴女)が開け放しにしてしまいました。
さらにそのとき、後ろ戸が開かないように守っていた要石(かなめいし、呼び名は”ダイジン”=猫の姿をした神)を大地から引き抜いてしまいました。
この2つの出来事からこの物語の厄災(後ろ戸が開いてその地域に大地震が起きてしまう)がスタートします。
映画を鑑賞した人々によるちまたの声には、「すずめが全て悪い」「全てはすずめのせい」などともあります。
しかし、事情を知らない地方暮らしのイチ高校生に、扉や石にそんな大層な背後関係があったとは気づくはずもなく、すずめにとっても突然ふりかかった厄災のようなものだったとも言えるでしょう。
要石はすずめが地面から引き抜いてしまい、すぐに生き物へと変化して走って逃げてしまいますが、生き物はのちにダイジンという名で呼ばれる猫で、すぐにすずめの家の窓のベランダに姿をあらわします。
猫はやせ細り貧相だったため、見かねたすずめが家にあった干魚を餌として与え「かわいい。ねえ、うちの子になる?」と声をかけます。
これに対し猫は「うん。すずめ、やさしい、すき。」と言葉を発し、傍らにいた閉じ師の草太を「おまえはじゃま。」と言ってそばにあった子供椅子に変身させてしまい、要石としての役割も草太に移してしまいます。
ここから、逃げる猫=ダイジンを追って日本列島を横断するすずめと草太の旅物語が始まりますが、最後はすずめの想いを理解して元の要石の姿に戻り、地震の源である化身の大ミミズを封じる封印として役割を全うします。
一度は自由の身になり奔放に振舞うダイジンですが、すずめの言葉に応じて元気になったり、元気を無くしたり、最後は元の要石にもどってしまうのです。
自らの役割を再認識し、責務を果たそうと再び要石になるダイジンがかわいそうだという声が上がっているのです。
なぜ要石が抜けた?そもそもダイジンとは何者か?何をしたかったのか?
そもそも、要石は現実世界にも実在しているものです。
地震を鎮めるために祈念して祀られた特別な岩で、現在は茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、千葉県香取市の香取神宮、三重県伊賀市の大村神社、宮城県加美町の鹿島神社にあります。
すずめの戸締まりで出てきた宮崎の”門波リゾート”にあった要石は新海誠監督による架空のものですが、映画の中では草太の祖父宗像羊郎の言葉では、閉じ師が要石としての責務を担い、長い時間をかけて神格化する、ということでした。
すずめの戸締まりでは抜けた要石は猫”ダイジン”に変化しますが、もともとは人だったということが推測されます。
なぜダイジンの要石が抜けた?
映画の来場者特典パンフレットには、”要石は後戸から出てきた”、と記載されており、すずめが後ろ戸を開けてしまったせいで、常世(すべての時間が存在する特別な空間で、死者の赴く場所)から出てきてしまったのでしょう。
幼い時に東日本大震災で被災し母を無くしてしまったすずめが事情を知らずに後ろ戸から常世へと迷い込んだ経験があり、すずめには常世が見える能力があったことが災いしています。
映画では聞き取れませんでしたが言葉のようなものを発する不思議な石を、これは一体何だろうと疑問に思ったすずめが自然と持ち上げてしまったことで、地面に刺さり地震を封印していた要石が抜けてしまった訳です。
女子高校生の力で簡単に抜けてしまったところを見ると、封印としての力も弱まってきていて、その辺りの処置も含めて宗像草太が閉じ師として後ろ戸の見回りをするはずだったのが、すれ違った宗像草太を追って後ろ戸に辿り着いてしまったすずめが、わずかに先を越してしまったものです。
そもそもダイジンとはいったい何者なのか?
ダイジンはもともと西の要石として日本の西地域の地震を封じ込めていた神様でした。
ダイジンから要石としての役割を移された草太は皇居の地下で抜けてしまった東の要石(サダイジン)の代わりとして子供椅子の姿のまま地面に刺されてしまいます。
映画の中盤で草太の祖父宗像羊朗がすずめに「草太はこれから何十年もかけ、神を宿した要石になっていく。」「それは人の身には望み得ぬほどの誉れ。」と語っています。
また羊朗は窓辺に現れた東の要石であったサダイジンに対し、 「お久しゅう御座います、とうとう抜けてしまわれたか。」 「あの子について行かれますかな。」 「よろしくお頼み申す。」 と話しています。
羊郎の発言から要石は神ですが、もともと羊朗の一族と思われる閉じ師が要石として自らの身をもって地震を制する役目を背負い化身したものであり、時を経て神格化してゆくもの、ということがわかります。
要石の役割から解放されたダイジンは子供のような言動でしたので、何かの事情で子供の閉じ師が要石に姿を変えたものなのかもしれません。
映画の中で出てくる草太の部屋にあった古文書に、ダイジンは安政地震の被災孤児で自ら願い出て要石になったという記載があり、そうだとすると人格が子供であることが理解できます。
ダイジンは何をしたかったのか?
ダイジンは長い間独りぼっちで後ろ戸を封印していたため、すずめに地面から抜かれて自由に動けるようにしてもらったうえに食べ物まで与えてもらい、さらに「うちの子になる?」とやさしく声をかけられ、いっぺんにすずめのことが好きになってしまったのでした。
ダイジンはこれから自由になり、すずめと遊ぶ、ことを願い、再び封印されぬよう邪魔となる閉じ師の草太を子供椅子に変化させ要石の役割も転移させたのでした。
言動から精神年齢が子供程度と考えれれるダイジンは純粋に、大事にしてくれて好きになったすずめとずっと遊びたかったのでしょう。
ダイジンは、追いかける子供椅子姿の草太から逃げる形で九州から瀬戸大橋を渡って神戸、東京へとやってきますが、途中で空いた後ろ戸を誘導するかのごとく姿を現わしては消えています。
子供であるダイジンはすずめと一緒に居たかった、一緒に居て遊んでもらいたかったのです。
皇居の地下にある東京の後ろ戸の前ですずめに「すずめ。やっと二人きり。」とほうをすり寄せます。
それに対してすずめの態度は?
皇居の地下にある東京の後ろ戸の前で二人は対峙します。
すずめ「ダイジン!あんたのせいで!草太さんを返して!」
ダイジン「ムリ。」
すずめ「どうして!?」
ダイジン「もう人じゃないよ。」
すずめ「草太さんを戻してよ!」
ダイジン「すずめ、痛いよ。」
すずめ「戻しなさい!」
ダイジン「痛い、痛いってば、すずめ。好きなんだよねえ、ダイジンのこと。」
すずめ「あんたなんか大っ嫌い!どっか行って。二度と話しかけないで。」
ダイジン「すずめ、好きじゃなかった・・・。」
すずめから大嫌いと言われ、ダイジンは元のやつれたやせ細った猫の姿に戻ってしまいとぼとぼと歩いて消えます。
なぜ最後要石に戻った?
すずめが草太に想いを寄せていることを知り、自分の願いが叶わないことを知ったダイジンはすずめが常世へと入れる後ろ戸に案内し、一緒に常世へと入ってゆきます。
ダイジンは、要石に姿を変えた草太に代わりすずめが自分が要石になろうとしていることを知り、すずめと一緒になって草太のなれの果てである子供椅子姿の要石を地面から引き抜きます。
このとき、すずめの想いを知ったダイジンには既にもう元の要石に戻る覚悟ができていたのでしょう。
草太が人間に戻り意識も回復した時、ダイジンは力尽きて横たえてしまいます。
最後にダイジンはすずめの手の上で「ダイジンはね、すずめの子にはなれなかった。」「すずめの手で元に戻して。」といい、元の要石の姿に変わります。
自分の役割を子供ながらに再認識し、覚悟を決めたのでしょう。
この、「うちの子になる」という言葉は実はすずめが叔母の環から東日本大震災で被災し母を探して泣いていた時にかけられた言葉なのでした。
ダイジンに過去の自分の姿を見たすずめであり、観客にもしも自分があなただったらという意識を問いかけるものでもあります。
すずめの戸締まりでダイジンがかわいそう!なぜ最後要石に戻った?まとめ
すずめの戸締まりで鑑賞者からダイジンがかわいそうと言われていることや、最後に再び要石に戻ったことについての考察をしてみました。
子供人格のダイジンには要石の責任自体重いもので、いっとき自由の身になり恩人で可愛がってくれたすずめと二人っきりで遊びたかったのでしょう。
すずめが草太のことを大切に想い、心を寄せ、身代わりになろうとしていることを知り、最後に身を引き再び要石に戻ります。
すずめの戸締まりは東日本大震災を背景として描かれた映画ですが、誰もが等しく対峙する可能性があり、もしも自分があなただったらという見方で意識されています。
ダイジンは願い叶わず最後に要石に戻り、かわいそうな役割だったかもしれませんが、地の神を鎮めるために欠かすことのできない犠牲だったともいえるでしょう。
これから先も起こる可能性がある過去の大震災と向き合うことを視聴者に問いかける映画でした。
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